2015.0821

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3行でわかるこの記事のポイント

地方小規模大学のV字回復、その舞台裏に迫る

山口県下関市にある梅光学院大学は、定員充足率60%台という苦境から一転、この3年間で入学定員をほぼ充足するまでに回復した。募集広報という今や「当たり前」の努力に加え、大胆な組織改革の下、教学面をはじめとする抜本的な改革を進める地方小規模大学の姿を、2回にわたって紹介する。

■前編――それは、改革リーダーのヘッドハンティングから始まった

梅光学院大学の概要.JPG

●過去5年間の学生募集――高校訪問に力を入れ始めた翌年、はや成果が

 梅光学院大学は、人文学部(入学定員190人)と子ども学部(同80人)からなるミッション系の私立大学だ。1872年にアメリカ人宣教師夫妻が長崎に開いた私塾を母体として、1914年、下関に下関梅光女学院を創設。1967年に4年制の女子大学を開学した。

 地元では伝統ある名門校として知られてきたが、18歳人口の減少に伴い、近年は学生募集に苦戦。2001年度の共学化、2005年度の子ども学部新設などを経て、なお厳しい状況が続いていた。

 5年ほど前まで入学者数は、定員270人に対しおおむね200〜220人で推移。それが、2011年度に181人(志願者数287人)に落ち込み、翌2012年度も183人(同284人)と、定員充足率は初めて60%台に。ところが、2013年度は一転して257人(416人)に増加。その後も253人(416人)、269人(485人)と、現在は入学定員をほぼ充足するまでになった。

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 このV字回復の要因は、延べ回数を従来の2倍以上に増やした高校訪問だという。2012年度、高校訪問専従として採用した職員を中心に、主に九州の高校290校を延べ1328回訪れた。並行してさまざまな改革を進めたが、この時点ではそれらはまだ特段の成果を挙げておらず、高校訪問を通じて「現在の梅光学院大学」を認知させることによって、前年比1.4倍の入学者を集めたことになる。

 高校訪問と並行して進めた改革は、主に以下のような内容だ。

1. 組織の建て直し

 外部人材を加えて執行部を一新。現場の各部署も職員を総入れ替えし、仕事のやり方を抜本的に見直す体制に。職員が教員を評価する制度もスタート。

2. 募集広報の強化

 高校訪問以外でも、大学案内やオープンキャンパスを顧客目線で見直した。

3. 教学改革

 学部の統合と教養教育の共通化。全学生の参加を可能にする留学プログラムの充実。

4. キャリア支援

 先進校をモデルに、キャリア教育を改革。教員採用試験、航空業界への就職等、学生のニーズに応える支援プログラムの導入。

5. 財政再建と投資強化

 ボーナスの一律カットや退職金算定基準の改定等で痛みを分かち合う一方、職員の新規採用や奨学金など、必要な部分への適切な投資を進めた。

 現執行部の1人が、「伝統の上にあぐらをかき、危機感がなくジリ貧に陥っていた」と評する地方小規模大学において、誰がどのようにしてこれらの改革を進め、V字回復を果たしたのか。まずは、改革前の大学の状況から見ていこう。

●改革前夜――「高校訪問は品がなく、迷惑な行為」?

 梅光学院大学では、定員割れが恒常化する中で人件費がかさみ、累積赤字が増大していた。にもかかわらず、学生募集のために広報に力を入れようという意識は乏しかった。高校を回って自学の宣伝をするのは品がないことであり、先方にも迷惑をかけると考えられていた。年間の訪問回数は延べ570回前後に上ってはいたものの、何のために誰に会う必要があるかという目的意識が希薄で、形式的なものにとどまっていた。

 大学案内は毎年、表紙も中身も前年度との区別がつきにくいほど変わり映えしないものを制作。オープンキャンパスは形式を整え、トラブルなく遂行すること自体が目的化していた。接触者や志願者のデータを管理し、追跡するという発想もなかった。

 多くの部署で、公立高校の校長経験者らが要職に就き、職員は業務の目的や効率を問い直すこともなく、前年踏襲の仕事に終始していた。

 学生の就職状況も年々、厳しさを増していた。「かつては、銀行をはじめとする地元の優良企業がお嬢様大学の卒業生を採用してくれた。産業構造の変化や長い不況の影響でそうしたルートがなくなり、『就職できない人文系の大学』というイメージが定着し、学生が集まらなくなった」。大学の幹部はそう解説する。

 さまざまな問題が重なるところへ、2011年度の入学定員充足率60%台への落ち込みが追い打ちをかける。90人の定員割れは、2億円の赤字が4年間続くことを意味した。そんな中、学内の教育改革委員会がとりまとめた改革案は、定員削減を柱とする内容だった。委員長を務めていた当時の中野新治学長兼学院長は、「それではじり貧だ」と案を却下。「今、改革に打って出なければ、この大学に未来はない」と、覚悟を決めた。

●キーパーソンの着任――他大学での改革実績を評価して白羽の矢、学長も交替

 中野氏がまずやったことは、改革をリードする人材の獲得だった。白羽の矢を立てたのは、当時、中部地方の総合大学で非常勤講師を務めていた只木徹氏。英語教育が専門で、語学を中心とする教養教育の改革を担当していた同氏は、中野氏の誘いに応じ、2011年10月に非常勤講師として梅光学院大学に着任。クリスチャンで、同大学の要職に就くための要件を満たしていたことも、人選の決め手になった。

 只木氏は2012年度からの改革の本格始動を念頭に、着任早々、旧知の教育コンサルタントの助言を得ながら、学内でのヒアリングを実施。さまざまな問題点を把握する一方、共に改革を担ってもらう有能な教職員のリストアップも始めた。

 翌2012年度には執行部が刷新された。中野氏がポストを譲る形で現在の樋口紀子学長が就任。さらに、事務局を廃止し、経営に加え、幼稚園、附属校を含め教学も所管する統轄本部を改革の中枢として新設、只木氏が本部長に就いた。教学の権限のみならず、人事とカネを動かす権限を掌握することが改革には不可欠と考えたわけだ。中野氏も引き続き学院長として、執行部の一角を担う。

 樋口学長は同大学の卒業生で、生え抜きの教員。牧師でもあり、学長就任前は宗教主任を務めていた。只木本部長は「よそ者の私が改革を進めるには、学内のことを熟知したパートナーが必要だった」と話す。樋口学長は、「クリスチャンで生え抜きで、それなりの年齢という条件の下、消去法で残ったのが私だった」と笑うが、只木本部長が「改革マインドがあり、信念を曲げない」と評するそのパーソナリティが、改革の強力なエンジンとなったのは間違いなさそう。樋口学長と只木本部長の二人三脚による「悪しき古い部分を徹底的に壊してゼロから作り直す改革」(同学長)が始動した。

 新執行部の下、改革初年度は、学部長、センター長等の幹部が毎週集まり、3、4時間にわたって改革の方向性を議論した。樋口学長は「いつも気がつけば外は真っ暗で、ぐったり疲れていた」と振り返る。会議の内外で毎日のように、頭を抱える難題が浮上。「何をやるにも、『前例がない』『ルール無視』『うまくいかなかったら誰が責任をとるんだ』と責め立てる抵抗勢力との闘いの連続だった」と言う。

●高校訪問スタート――共学化したことも知られていなかった...

 2012年度、高校訪問専従職員として着任したのが、アドミッションセンター営業統括の緑川勝利氏。予備校を経て他大学で学生募集に携わった経験もある。自ら申し出て、名刺には「営業担当」と入れた。

 東西に長い山口県。その西端にある梅光学院大学にとっては、東の山口市や萩市以上に、北九州市を中心とする福岡県、さらに他の九州北部のほうが開拓の余地が大きいマーケットだと、緑川氏は見定めた。主にこれらのエリアで対象校を新規開拓し、訪問。学内の非協力的な姿勢をよそに、精力的に回った緑川氏は、「高校からは驚くほど歓迎され、大学の情報を欲していることがよくわかった」と話す。

 過去の入試データや立地、学校規模、設置コース、男女比などに基づいて重点度を5段階に区分し、最重点校は毎月訪問。特に推薦・AO入試の志願者掘り起しに力を入れた。進路指導主事との関係づくりに努め、自学を志願先として考えている生徒については名前を把握。その後の会場ガイダンス、オープンキャンパス、出願、入学の各プロセスでその生徒が残っているかどうか追跡した。

 高校訪問では自学のPRにとどまらず、高校、生徒側の実情や課題を徹底的にヒアリング。大学や入試に関わる行政の動きに関する情報提供にも力を入れながら高校側の情報ニーズをつかみ、それに応えるよう努めた。毎週、学長らも加わる戦略会議で、どんな情報を持っていくか、時期に応じてどんな話題を作り出すべきか、検討。出願が期待される生徒の情報もここで共有した。

 共学になったことすら知らず、「人文系のみの大学」とのイメージを抱いたままの進路指導担当者が多いことに、緑川氏は驚く。小学校教員を養成する子ども学部があり、男子学生が増えつつあることを伝えるだけでも、初年度は一定の募集効果があった。さらに、卒業生の大学での近況を報告したり、大学の改革状況を伝えたりすることによって、高校との間に信頼関係が生まれ、訪問2年目以降の募集も堅調を維持。志願者は、一般入試、推薦・AO入試ともほぼ同じ割合で増えている。

 高校側からは「共学なら教員志望の男子を送りたい。現在、枠が一人だけの指定校推薦をもう一人増やしてもらえないか」といった相談もあり、積極的に応えた。

 2015年度現在、高校訪問専従の職員は3人に増員されている。

●その他の募集広報――オープンキャンパスは高校生の声を集める場に

 高校訪問以外の募集広報にも手をつけた。緑川氏は、「本学のアドミッションには、顧客目線の発想が乏しかった。そこを徹底的に変えようとしている」と話す。接触者や志願者のデータもおよそ初めて管理するようになった。入学者も対象とするいくつかの調査から、「県内の私立大学の中で最低レベルの認知度」「高校教員の年齢が下がるにつれ、本学の認知度が下がる」等の問題点がわかり、具体的な打ち手が見えてきた。

 教員が中心になっていた大学案内の制作は、アドミッションセンターの職員が担当。表紙のデザインについて、在学生やオープンキャンパスに来た高校生に複数の案を示して意見を聞いた。「建物よりも人の写真のほうが手に取りたくなる」との声を反映し、2015年度の大学案内では、外国人教員のインパクトある表情が表紙を飾る。学長自ら指示し、ページ数を3分の2にし、文字数も大幅に減らした。

 オープンキャンパスは「大学のことを伝え、高校生の声を集める場」との位置付けを明確にして内容や運営方法を見直し、来場者のデータも管理するようになった。

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大学案内の表紙。シンボルである建物のイラストや写真を配した
2010~2012年度版(左)と、刷新した2015年度版(右)

●組織改革――改革意欲のある中堅職員の部長起用も

 附属の図書館と博物館の管理部門を学術情報センターとして統合するなど、組織の大ぐくり化を進めた。

 保守的で決まった業務をこなすだけという体質を抜本的に変えるために、組織に大胆なメスを入れた。部長職の多くに新規採用の人材を充て、キャリア支援センターは人材関連企業出身者、アドミッションセンターには広報と営業のプロが就いている。改革意欲のある中堅職員を抜擢するケースもあり、全体として部長が若返り、女性が増えた。

 さらに、長年同じ部署にいる職員を思い切ったシャッフルで入れ替えた。只木氏がセンター長を兼務するキャリア支援センターの場合、毎年メンバーを入れ替え、現在は6人の職員のうち元々いたのは1人のみになった。学内のしがらみにとらわれない部長の下、良い意味で「これまでのやり方」を知らないメンバーが、全学的視点や学生の立場から、業務のあり方を見直すようになった。職員の新規採用が続いたため、その総数は改革着手前より微増し、人件費も増えた。それでも、必要な投資は行うとの方針だ。

 客観的な視点や発想が重要とはいえ、大学という独特の組織、しかも要のポストに、学内のことに精通していない人材が一気に入ってくることによる問題は生じていないのだろうか。卒業生として大学への思いが人一倍強い樋口学長は次のように話す。「デメリットを感じることは全くない。皆さん、本学が伝統を大事にしていることを理解したうえで来てくれ、良き伝統は一緒に守ろうという意識がある。ビジネスの世界でプロとしてやってきた人は、そういう感度が高いのではないか」。むしろ、新任の職員から「ミッション系の大学なのに礼拝に出ない職員がいるのはなぜ?」と素朴な疑問が上がり、考えさせられることもあるという。

 プロ職員の育成こそが大学の生き残りにつながると考え、学外のセミナーや学会などに積極的に派遣する一方、学内の研修会にも力を入れ始めた。

梅光学院大学の学長陣.jpg

――後編へ続く